2024年、バレーボールの世界大会「ネイションズリーグ」で20歳の新星、甲斐優斗選手が世界を驚かせる活躍を見せています。
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日本代表として2023年から頭角を現し、2mの身長からは立たれるアタックで海外チームを圧倒。
チームが劣勢に立たされた場面でも弾丸のようなサーブを放ち、試合の流れを変える存在感を放っています。
そんな甲斐優斗選手は父・母・兄がみんなバレー選手というバレー一家の次男。
しかし、少年時代は「やる気なし」。高校2年生まで無名選手だったあまりにも意外な経歴を持ちます。
それでは見ていきましょう。
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甲斐優斗のプロフィールや身長など
最初に甲斐優斗選手のプロフィールから
- 名前:甲斐 優斗(かい まさと)
- 国籍:日本
- 出身地:宮崎県
- 生年月日:2003年9月25日(20歳)※2024年6月時点
- 身長:200cm
- 体重:79kg
- 所属チーム:専修大学 ※2023-24年の1シーズンはフランス”パリ・バレー”に所属
- 2022,23,24 日本代表に選出
#バレーボール男子日本代表
— 公益財団法人日本バレーボール協会 (@JVA_Volleyball) September 25, 2023
/#甲斐優斗 選手20歳の誕生日🎊
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本日9月25日が誕生日の甲斐優斗選手を試合後に
ケーキと #髙橋健太郎 選手の歌でお祝いしました🎂#バレーボール #volleyball #ALLforPARIS #CatchOurDream pic.twitter.com/ffeFh7YYyC
父親も元実業団の選手だったそうです。
甲斐優斗の父・母・兄もバレー選手
父親の晃宏さんは9人制バレーボールの元実業団選手。
宮城県の延岡南バレーボールチームの監督を務めていました。
9人制バレーボールとは?
普段、私たちがTVで目にするのは6人制のバレーボール。
元々アジアにバレーボールが広まった頃は16人制や9人制が中心で、ヨーロッパが6人制でした。
1964年の東京オリンピック以降、国際大会は6人制となりましたが、日本国内では9人制・6人制の2つが実施されています。
バレーボールを始めたのも父の影響で、厳しい指導を受けていたそうです。
2020年、甲斐優斗選手が高校2年の頃、父親の晃宏氏は大腸がんの48歳の若さで逝去されています。
「バレーの時はすごく厳しかったけど家に帰るととても優しいお父さんでした。自分が春高のオレンジコートで輝いている姿を見せたいです」
オレンジコートとは?
春高バレーのある東京体育館のコートがオレンジ色となっているためこう呼ばれます。
球児たちにとっての甲子園、ラグビー少年たちにとっての花園、のような感じです。
2020年当時は甲斐選手は無名の選手。
在籍していた高校も春高バレーに出たことがなく、さらにコロナの影響でインターハイ中止など過酷な厳しい状況が続いていました。
しかし、この言葉は鮮烈なかたちで実現することとなります(後述)。
母の照美さんもママさんバレーで日本一となった実力者。
ママさんバレーも多くが9人制のチームのため、おそらく9人制バレーでプレーしていたと思われます。
甲斐優斗の兄(孝太郎)もVリーグのバレー選手
2つ上の兄・孝太郎選手はVリーグ、サントリーサンバーズ所属。
ポジションはオポジット。身長は187cm。
![甲斐優斗の兄(孝太郎)もVリーグのバレー選手](https://www.tanakayuya.com/wp-content/uploads/2024/06/image-3-30.jpg)
出身は延岡南中学校、日南振徳高校、専修大学。
優斗選手がそれについていったという感じのようです。
小学生の頃はしょっちゅうケンカしたそうですが、優斗選手にとっては道を作ってくれている存在だったと語っています。
日南振徳高校では3年生のときに主将をつとめ、春高バレー宮崎県予選では決勝まで勝ち上がっています。
中学から大学まで、弟と「チームメイト」として戦い抜いてきましたが、次は「相手として戦ってみたいですね」と語っています。
では甲斐優斗選手が「17歳まで実績ナシ」かた日本代表までの経緯を見てみましょう。
甲斐優斗 やる気ゼロから日本代表へ?!
今や日本代表の若手選手としてフランスリーグや日本代表チームでの活躍を見せる、20歳のバレー男子の次世代エース、甲斐優斗選手。
2022年、18歳で日本代表に抜擢されると2023年から頭角を現し、今年は一気に実力が開花。
2mを越える身長からアタックを打ち落とすなど、世界を驚かせます。
この試合で解説しているのは元日本代表で2009年にワールドグランドチャンピオンズカップでベストスパイカー賞の福澤達哉氏。
その福沢氏が
「海外からするとビッグサプライズですよね!『石川(祐希)、高橋(藍)がいないと思ったら、誰だコイツは?!』てなってると思うんですよ」
※調整のため、両選手ともこの時点では代表から外れていた。
「この高さっていうのは、甲斐選手の魅力のひとつですよね」
と甲斐優斗選手を絶賛。
そんな甲斐優斗選手ですが、高校3年までは全くの無名選手で、ジャンプ力すらほとんどなかったという意外過ぎる過去がありました。
日本代表までの経緯を見てみましょう。
小学2年で「やる気ゼロ」からバレーチーム入り
甲斐優斗選手は父も母もバレーをしていたことから、物心つく頃にはすでに両親がバレーをする姿を見ていたそうです。
幼稚園の頃には母照美さんのママさんバレーの練習にもついていったとのこと。
父は先述の通り元実業団選手で、のちに甲斐選手が入団する延岡南(のべおかみなみ)バレーボールクラブの監督。
そんな甲斐優斗少年は兄(孝太郎)とよく風船バレーをして遊んでいました。
そして、食卓にはいつも牛乳が置いてあったのだとか…「バレー一家」そのものという雰囲気ですね。
小学1年で父晃宏さんが監督を務めていたバレーボールクラブにいつの間にか行くようになり、翌年に入団。
2年上にはすでに兄の孝太郎選手がプレーしていました。
両親も兄もバレーボールをしていて、食卓にはいつも牛乳…
何だかここまでだけでも「少年バレーボール漫画の第1巻」ような展開にも見えます。
しかし、意外な事実がここにはあります。
![甲斐優斗の父親も兄もバレー選手!やる気ゼロから日本代表へ?](https://www.tanakayuya.com/wp-content/uploads/2024/05/コミックぼかし.jpg)
それは、「やる気に満ちた入団」なのではなく「半強制的な入団」だったことです。
当の本人が「正直、やる気はなかったです。本当にやらされている感覚」と語っています。
兄の孝太郎選手も否定していません。
「練習がきつかったので、(弟は)やる気よりも嫌々という雰囲気がありました」
しかしながらそこはバレー一家。
家族での両親との会話はほとんどがバレーの話ばかりだったそうです。
「小学生の頃はプレーの反省とか、家にいたらほとんどがバレーの話でした」
そんな小学生時代を過ごした甲斐優斗少年は小学6年で身長は160センチを超えるようになっていきました。
中学校に入ると、今度こそ「全国のライバルたちと競い合う」というバレー漫画のような生活になったのでしょうか?
中学時代の指導者はバレー経験ゼロ
そうではなかったようです…
入った中学は地元の延岡南中学校。
![甲斐優斗の父親も兄もバレー選手!やる気ゼロから日本代表へ? 延岡南中学校](https://www.tanakayuya.com/wp-content/uploads/2024/05/image-27-7.jpg)
延岡南中学校
バレー部はあったものの、指導者はバレーボール未経験者で県大会優勝どころか、真剣にバレーをやっていたとは言えない状態だったといいます。
バレー部に入った理由は「小学校で4年間やってきたので、新しいスポーツを始めるという考えはなかったです」と。
「中学は県大会優勝したくて…」みたいな熱はなかったような響きも感じなくはない。
ちなみに兄の孝太郎選手は、優斗選手が入学したときは3年生。その後も高校・大学は同じ進路を辿ります。
目立った成績もない甲斐優斗選手の中学時代でしたが、卒業する時には現在の200cmの片りんを感じさせる183センチまで伸びていました。
高校は父の恩師のもとへ進学します。
高校ではコロナが直撃するも…
2019年、宮崎県立日南振徳(にちなんほうとく)高校に進学。
![甲斐優斗の父親も兄もバレー選手!やる気ゼロから日本代表へ? 日南振徳高校](https://www.tanakayuya.com/wp-content/uploads/2024/06/image-1.jpg)
日南振徳高校
父の恩師である鍋倉雄二郎監督がバレー部の指導をしていることが理由だったといいます。
鍋倉雄次郎監督はバレーボール界において全国的にも名将として知られる人物。
当時、鍋倉監督は2009年に宮崎・都城工高を全国制覇に導き、日南振徳高校へは赴任して間もない頃でした。
当時、日南振徳高校は2009年の開校からまだ10年足らずという、比較的新しい高校。
バレー部は春高バレーへの出場経験がありませんでした。
しかも高校入学時の甲斐優斗選手はジャンプ力がまるでなかったそうです。
兄の孝太郎選手が「(ジャンプの高さは)ヤクルト(の高さほどの)ジャンプです。もう本当に、あれはひどかったです」と語っています。
そんな甲斐優斗選手は1~2年生まではインターハイや春高バレーへの出場も叶わず、無名の選手でした。
2年時(2020年)にはコロナの影響で高校の寮から自宅で過ごすことを余儀なくされ、自粛期間を過ごすことに。
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この頃の過ごし方が、スマホをいじるか寝ているかという生活だったそうで、長いときは10時間寝ていたと語っています。
しかしこの寝る生活が効いたのか、身長がぐんぐんと伸びていき、人に会うたびに「大きくなったね」と言われるほどになります。
結果的には高校1年で185cmだった身長が、200cmに達することに。
ジャンプ力が20cmもアップ(33cm➡353cm)するという成長を見せます。
その一方、この期間は両ひざの成長痛で高校2年の冬から約半年間は満足に練習できないという状態にも陥ります。
それでもインターハイの直前に練習に復帰。高校としても初出場にもかかわらず、ベスト8まで進出し、さらに優秀選手に選出されます。
勢いは止まらず春高バレー県予選で優勝。
本大会の2回戦では星城、3回戦では駿台学園と春高で優勝経験を持つ強豪校を相次いで打破の末、ベスト4という結果を残します。
「初出場でベスト4」というのは大会としもも26年ぶり7校目という快挙でした。
![甲斐優斗の父親も兄もバレー選手!やる気ゼロから日本代表へ?](https://www.tanakayuya.com/wp-content/uploads/2024/06/image-2.jpg)
さらにこの大会でも優秀選手に選出という快挙を達成。
![甲斐優斗の父親も兄もバレー選手!やる気ゼロから日本代表へ?](https://www.tanakayuya.com/wp-content/uploads/2024/06/image-1.png)
2メートルの高長身から次々と放たれる「ブロックの上を越えたスパイク」に対戦相手は「(ブロックで)触ることもできなかった」と苦笑いを浮かべたといいます。
このアタックについた名前は「甲斐キャノン」。
「甲斐優斗」の名は2mの大型選手としてだけではなく、日本屈指の高校生選手としてその才能を広く知らしめました。
大会後、「天国のお父さんには、優勝することはできなかったけれどセンターコートでプレーできたよと伝えたいです」とコメントしています。
また、高校時代を指導してきた鍋倉監督は将来の甲斐優斗選手について
「日本を代表するような選手になってくれると期待していますよ」
と語っていました。
この言葉からほどなくして、監督の言葉は現実のものとなります。
専修大へ進み、日本代表へ
大学も、兄と同じく専修大学へ。本人は「専修大もほぼ自動的に」と語っています。
大学入学当時、甲斐優斗選手はこう意気込んでいました。
「高校では日本一になれなかったので、大学は日本一になりたい。いつかは日本代表になって活躍できるように、練習して、これからもっと頑張りたいです」
この「いつか」は大学入学をした年に実現。
2022年に18歳の若さでシニア日本代表登録メンバーに選出されます。
![甲斐優斗の父親も兄もバレー選手!やる気ゼロから日本代表へ?](https://www.tanakayuya.com/wp-content/uploads/2024/06/211303_s.jpg)
シニア日本代表メンバーとしてスターティングメンバーとしてデビューしたのが2023年の中国との親善試合。
![甲斐優斗の父親も兄もバレー選手!やる気ゼロから日本代表へ?](https://www.tanakayuya.com/wp-content/uploads/2024/06/image-3-22.jpg)
そして公式戦デビューは23年のネイションズリーグ。
この大会での活躍により、甲斐優斗選手は日本代表の銅メダル獲得に貢献しました。
![甲斐優斗の父親も兄もバレー選手!やる気ゼロから日本代表へ? ネーションズリーグ](https://www.tanakayuya.com/wp-content/uploads/2024/06/image-3-24.jpg)
その後は2023年のアジア大会で優勝に貢献。
そしてワールドカップではピンチサーバーとして起用され、アメリカ戦では会場をどよめかせる弾丸サーブを放ちます。
この会場の盛り上がりは本当にすごいものがあります。実況も「ニッポンの未来!」と絶叫しているのが印象的ですね。
甲斐優斗選手はこの大会で、日本代表のオリンピック出場決定に貢献しました。
そして、海外挑戦の機会が訪れます。
「海外挑戦はイヤ」からフランス”パリ・バレー”へ
2023年の日本代表での活躍後、専修大に戻り秋季リーグ・全日本インカレ終えるや、次にフランスリーグへと挑戦します。
きっかけは日本代表監督のフィリップ・ブランさんの言葉。
「大学シーズンが終わったら、国内でもいいから外のチームで出てほしい」
大学の試合がない4カ月余りの期間を使ってVリーグや海外でプレーしてみろ、ということでした。
しかし、本人としては「海外挑戦はイヤだな」と思っていたとのこと。
むしろ、大学シーズン終了後の年末年始は実家で過ごそうとまで考えていたところに突然の提案でもあったそうです。
そんな中、日本バレーボール協会の協力であれよあれよいう間にフランスリーグの「パリ・バレー」というチームで挑戦が決まります。
![甲斐優斗の父親も兄もバレー選手!やる気ゼロから日本代表へ? パリバレー](https://www.tanakayuya.com/wp-content/uploads/2024/06/image-3-25.jpg)
手前が甲斐選手
出国寸前まで悩んでいたものの、最後には「やってみようという気持ちになりました」と。
ちなみにパリ行きを決断した決め手は、チームに宮浦健人選手が所属していたから。
![甲斐優斗の父親も兄もバレー選手!やる気ゼロから日本代表へ? パリバレー](https://www.tanakayuya.com/wp-content/uploads/2024/06/image-3-27.jpg)
宮浦健人選手
フランスリーグで複数回MVPを獲得する大活躍を見せた
「宮浦さんの存在は大きかったんですよね」と語っています。
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甲斐優斗選手はシーズン途中での加入のためレギュラーは入りませんでしたが、様々なポジションをこなす力を発揮して活躍を見せました。
セット終盤にリリーフサーバーとして起用され、甲斐優斗選手のサーブから勢いがついて相手にストレートで勝利する試合も。
ゲーム形式の練習時には甲斐選手のスパイクを胸のあたりで受け、痛みを訴える選手までいたといいます。
チームメイトの宮浦選手はこう語っていました。
「(甲斐は)ブロックの上からでも普通に打ちます。日本に帰って、あの高さと力強さを見たら、みんなびっくりすると思います」
2024年4月に帰国。
大学のシーズンを経て、日本代表メンバーにも再び選出。
宮浦選手の”予言”通り、甲斐優斗選手はネイションズリーグで世界を驚かせる活躍を見せています。
昨年のネイションズリーグの日本の実績は3位。
今年もかなり勢いのあるチームとなっていて、メダル獲得が期待されています。
そして男子バレー日本代表はパリ・オリンピックでもメダル獲得も期待されています。
その一角を成す新星、甲斐優斗選手に注目していきましょう!
今回は以上です。ここまで読んでいただき、ありがとうございました!
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